2020年9月 3日 (木)

昨日は、V.E.フランクルの命日だった

 昨日は、V.E.フランクルの命日だった。

 自分の中では、フランクルの著作との出会いは、1980年だった。でも、大きな影響を受けたのは、もっと後のこと。1987年あたりから強く意識するようになったと思う。

 自分の中にある臨床的枠組みが、精緻に作られれているようでいて、何か決定的に重要な要素を見落としているような気がして悩んでいた頃に、V.E.フランクルを見直す作業が始まったと思う。実存的枠組みとして、とても大きな存在であり、その後の自分の臨床実践に影響を与えた。

 今現在はどうかというと、もっと違った視点から実存の問題を捉え、具体的な臨床実践を展開しているけれど、それでも、V.E.フランクルの偉大さは、自分の中では変わらぬものだ。

 V.E.フランクルもE.H.Eriksonも、自分が臨床的枠組みとして参照しつつ、その実践を重ねている最中にこの世を去った先駆者だ。亡くなったことが、ニュースで伝わり、業績を讃える記事をあちこちで目にした。

 ただ、残念なのは、その業績が本当の意味で理解され、我々の精神生活の充実に寄与するかたちになっているのかというと疑問である。中途半端に理解され、歪んだイメージが流布したり、理論と現実の生活とをつなぐ実践理論の構築が進まなかったりして、せっかくの知見が活かされていないような気がする。

 このあたり、いつもその「間」の部分の展開に腐心してきた者として、もう少し仕事をしておかなければならないんだろうなと思う。

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2020年8月 3日 (月)

「リモート」の功罪

 新型コロナ対策で、最近は「リモート」が大流行だ。以前から、Apple系の端末で使えるFaceTimeというアプリは存在していたものの、Windows系の端末も含めて、幅広く利用可能なアプリが出回ったことで、「リモート」の普及が一気に進んだ印象がある。

 これは、実際に使ってみると、いろいろなメリットがあるのがわかる。広範囲から参集しなければならなかった会議が、自宅に居ながら出席できてしまう。これは時間の節約に大いに役立つ。時間はとても大切だ。移動のための長い時間が節約できるならば、気持ちの余裕もモテたりすることもある。

 あるいは、なかなか会えない遠方の知人や親戚の様子が、映像でよく分かり、会話もできてしまうのは画期的なことかもしれない。場合によっては、なかなか会えない遠方の孫の姿を目にすることができ、会話までできてしまう。遠方の老親の様子だって、具体的に映像で確認できるし、電話ではよく分からないことも、説明しやすかったりするだろう。

 しかし、その一方でデメリットもある。特に、距離感の問題はメリットでもあるが、デメリットでもあり、使い方によっては生活の質を低下させてしまうことになりかねない。

 本来物理的にも心理的にも近い存在であるならば、「リモート」によって距離感が縮まるのは、悪いことではないだろう。でも、本来、心理的な距離を少し遠めに保ちたい場合であっても、その距離が縮まってしまうのは、けっこうなストレスになる。身近な人間関係だけでも煩わしい面があるとすれば、通常は滅多に交流することもなく、自分の生活に影響しないはずの存在は、遠い距離のままに保ちたい気分にもなる。でも、「リモート」でつながることができることで、「リモート」を使ったコミュニケーションに参加しないといけないかのような雰囲気に巻き込まれることがある。参集できなくても、「リモート」なら、「ちょっとくらい参加できるのではないか」という圧力が働いて、なかなか断りにくいのである。

 これまでなら物理的距離に守られていた「心理的距離感」が雲散霧消してしまい、それを守ろうとするならば、自分自身の意思表示が必要だ。集団の圧力に対して、主体としての態度を堅持しなければならないわけで、軽い気持ちではいられない。国が無責任に示した「新しい生活様式」…そのデメリットの部分が吟味されないままだと、思わぬところで「新しい生活様式下におけるメンタルな問題」が現出することになりそうな気がする。

 

 

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2020年7月15日 (水)

「新しい生活様式」??

 新型コロナウイルスの感染防止対策で、国は「新しい生活様式」という言い方で、国民に対して「行動の変容」を求めている。これに対して疑問を持つことなく、その方向で行動している人も多い。

 感染対策という点では、確かに具体的な生活の仕方の変更は必要であるにしても、それを「新しい生活様式」と表現し、国が主導して国民の生活・文化を方向付ける権限を持っているかのような既成事実を作ろうとしているようで、大変不快である。

 今、必要なことは、感染対策の的確な実行ということでしかない。

 もしも、これから先ずっと、こういった感染対策が必要になり、生活に様々な制約が生じたり、経済活動に変更を迫られることになるなら、そこに生じている条件の中で、試行錯誤し、様々な可能性を模索しながら生活のかたちを作っていくのは、個人の営みであり、地域の活動であって、国が一方的に上から決めるものではないだろう。

 これまで、国の施策によって、昔から維持されていた意味ある生活様式が破壊されてきたのが、この数十年の経過のように思う。

 一人一人が、様々なプロセスに関与し、そのことによって生きていたものが、そのプロセスを他者に委託し、プロセスを失っていく個人の姿。そして、そのことによって経済活動が成り立っている今の世の中。

 元々、プロセスを生きることを「人生」というのであって、自分の意思でプロセスに関与できないかたちは、人の生きた生活を奪うものでしかない。

 国から示される最近の施策は、プロセスを描かない机上の空論が多い。国には、既にプロセスを展開する視点を持った人材が枯渇していて、この国の未来を主導するだけの力はなくなっているように見える。

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2020年6月19日 (金)

【本】さく・長谷川和夫/え・池田げんえい「だいじょうぶだよ−ぼくのおばあちゃん」

 認知症に関して日本を代表する権威であり、多大な功績を持つ長谷川和夫先生が絵本を出版されていたことを知り、さっそく取り寄せて読んでみた。

 さく・長谷川和夫/え・池田げんえい
「だいじょうぶだよ−ぼくのおばあちゃん」ぱーそん書房

 出版は、2018年10月…先生自身が認知症になり、そのことを綴った連載「時代の証言者、ボク、認知症」(読売新聞2018.8.11-9.12)…この連載のすぐ後に出版された絵本だ。

 絵本の内容は、とても簡略で「あれ?」と思うほど。認知症になったときの、様々な辛さが克明に描かれているわけではない。家族の苦悩も同様で、とてもアッサリしている。

 でも、認知症になってからも執筆している先生が、あえてこのシンプルな内容で伝えようとしていることを考えると、先生は、これこそがとても大切なことなんだというメッセージなんだろうと思う。

 シンプルに絵本のかたちにしたことで、幼い子どもも含めて、家族皆で気持ちをひとつにできる、そんな素材として示しているように思う、

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2020年6月 9日 (火)

臨床的居場所論

 自分の臨床の基本的な軸は、実存的な意味を構成する居場所論に拠るところが大きい。個々の細かな症状のことを考える以前に、臨床的判断の最も大切な前提となるものがここにあると思うし、アタッチメント、基本的信頼、アイデンティティ、トラウマ、虐待臨床等々を包含し得る懐の広さがあると思う。

 そんな意味で、「居場所がない」という感覚について述べている著作には関心がある。

 水島広子先生の「『自分の居場所がない』と感じたときに読む本」は、その意味で、オススメの本だ。「居場所がない」という感覚は、多くの人が体験したことのある感覚。でも、それが日常のことになって強く意識され続けるとき、とても苦しい状況に陥っていくし「消えてしまいたい」とまで思ったりする。そんな、居場所感の問題についてヒントが得られる本だと思う。

 個人的には、どんな優れた技法として認められていても、居場所感に対する配慮に欠けていれば、ろくなものにはならないし、むしろ有害だと思っている。ひとりひとりが存在する価値のあるものとして受け入れられ、否定されない感覚…これなくしてケアは進まないと思う。

 そんな意味で、自分の臨床は、「臨床的居場所論に基礎を置いた虐待臨床」ということなんだと思っている。

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2020年5月 9日 (土)

長谷川和夫先生の本

 日本の認知症に関する医療に従事している人なら、誰もが知っている日本を代表する認知症の権威、長谷川和夫先生の本を読んだ。

 先生御自身が認知症になって、感じたこと考えたことが綴られている。

 読んでみて印象として残るのは、「権威」というイメージがなく、とても穏やかな愛情溢れる先生だということ。ちゃんと「人」を見る視点を持っていて、人を大切にする意識が、温かくまた同時に穏やかで力強く存在しているのが伝わってくる。

 医療従事者にも、そうでない人にもお薦めの本だ。

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2020年1月26日 (日)

「常識」って何だろう?

 精神科の臨床では、他人の評価がとてと気になってしまって不安定な人に高頻度で出会う。

 その悩みや不安の中身は様々。具合が悪くて仕事に出られなくなったとき、「弱くてダメ。もっと頑張れないといけないのに…」と言う人。気になってしょうがない他人の乱暴な言動に緊張することについて「そんな些細なこと気にするなって言われるけど、どうしても怖く感じてしまう。」と自分を責める人。作業所で「誰とでも話せるようにならないとダメだと毎日のように言われるけど、自分には無理…」と涙する人。「このくらいなんですぐに覚えられないの?って、皆から言われて。メモしようとすると、こんな簡単なこといちいちメモしないで覚えろって言われるし…」とアルバイト先での辛さを語る人。

 いろいろな場合があるにしても、「普通はこうだよ」「なんで普通に出来ないの?」と言われ、世間の常識に合わせることに難しさを感じていたりする。そのあたりを説明しても理解されることもなく「それじゃあ、もう来なくていいよ」と排除される。

 「常識」というものがあり、その通りに動けないことで、仲間として受け入れられなかったり、否定されたりする。

 でも、この「常識」って何だろう?と思う。世間一般の常識には正しいとは思えないことがたくさん含まれている。子どもの頃から「もっと頑張れ」「誰とでも仲良くしろ」と言われ、「間違ったことをすれば厳しく叱るべき」という「常識」があるために、恐怖を感じるほど強く頭ごなしに叱責されたりする。あり得ないことを求め、理不尽なことを受け入れろと求める。一体どこが正しいのか?と思う。

 「常識」の中には、確かに正しいと思えることもたくさんあるものの、意味不明のものも多い。

 結局、「常識」とは、マジョリティ側の都合で作られた「掟」のようなものでしかないのではないかなと思ったりする。マイノリティにとっては不都合な要素が多い。正しさの根拠は、「多数派であること」でしかないような気もする。社会の秩序を維持して、多数派が存続できるように作られた「掟」…良い面もあるものの、マイナス面もある。

 作家の村田沙耶香さんの小説「殺人出産」が問いかけているのは、このあたりかな…と思う。人にとっての倫理観さえ、まるで違ったものにもなり得る。何を倫理的と判断するかは「多数派の論理」であることが根拠になっているだけじゃないのか?と、マジョリティの喉元にナイフを突きつけるような小説だなと思う。この問いかけはとても重いものだと思う。

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2020年1月 2日 (木)

プロセスが失われた社会

 年が明けて新しい時間がスタートした。

 人は連続している時間を区切ろうとする。区切りがどうしても必要らしい。確かに区切りがあることで、過去をまとめ、未来を予測し、自分が何者であるのかを分かりやすくすることができる。どのようにして、何を成し遂げたのか。為し得なかったものは何なのか。そういったことが分かり、人生のプロセスを刻んでいくことができる。

 人生は、生まれる前から(恐らくは受胎以前から)死ぬまでの(あるいは死後も続く)変化のプロセスと言ってよいと思う。人生はプロセスであって、そのプロセスを主体としてどのように展開するのかということが常に問われていると言ってもよいだろう。

 でも、この世の中は、それとは逆行した動きが加速しつつ進んでいる。自分自身では判断しかねる「専門的な」事象が増えた。自動化が進み、自分の意思の介入の余地が少なくなった。結果だけが示され、中途のプロセスはブラックボックスの中。成果を求められ、そのために採用した方法は不問に付される。問答無用で服従を強いられ、意味不明のルールに支配される。

 国が示す方向性は、綺麗事ばかりで、そこに至るプロセスは何も提示されない。お題目ばかりで現実を動かすための知恵が国から失われている。打ち出される施策は、空っぽなものばかり。自国の成り立ちのプロセスがどうなっているのかも理解しないまま、他律的な手段ばかりが導入され、国としての生きた仕組みが弱体化していく一方だ。

 こういった動きは、世の中の隅々まで浸透してしまっている。医療・福祉・教育の分野でも、 プロセスが失われ、生きた人間の生活が、どういったものであるのかを描けなくなっている。しかも、そういった分野で働く人材の育成の仕組みが失われ、人が育たず、求められる成果ばかりが肥大化していく。

 プロセスを問い直し、それを展開できる力を再生させていくこと…これから先、取り組まなければならないのは、そういうとてつもなく大きな問題なんだと思う。

 さて、今年もプロセスの展開にこだわった活動を展開するつもり。どうなることか。

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2019年11月30日 (土)

児童虐待防止推進月間が終わる

 国から発信される情報は、「児童相談所の児童虐待相談件数は増加の一途を辿っている」「平均して毎週1人というペースで虐待によって子どもの命が失われている」という内容が主のように思う。それだけを読むと、子ども虐待の過酷さが増し、激しくなっているように聞こえる。少なくとも、そのように受け止められるような内容だと思う。

 本当に、子ども虐待は、「増加の一途を辿っている」のだろうか? アメリカやイギリスは虐待大国だ。質的には違うかもしれないが、日本もまた昔から虐待大国だったはずだ。今とは比較にならないほどの子どもが虐待されていたし、殺されていた。しかも、嬰児殺が殺人として厳しく罪を問われることもなかった時代さえあった。家族以外からの虐待もあり、そこで傷つけられ、あるいは殺された子どもたちもいたことは、なぜか忘れられているように思う。

 江戸時代だって子殺しはあったことは、以前から言われていることだ。「間引き」と言われる嬰児殺もよく知られている。奉公先での虐待もあった。昭和に入っても、養育しきれない子どもたちを引き取っていった者が、虐待し殺してしまった事件もある。歴史の中で、とても多くの子どもたちが虐待されてきており、相当の数の子どもが殺されてきた歴史を日本は背負っている。

 児童虐待に関して法律が制定されたのは、平成12年(2000年)の「児童虐待の防止等に関する法律」が最初ではない。昭和8年(1933年)に「児童虐待防止法」が制定されている。内容は時代を反映したものであるが、深刻な虐待の時代があったことを物語っている。

 「現在は、子どもが最も殺されなくなった時代」という人もいるし、それは確かに事実だと思う。だだ、根絶するには、歴史的な経過も含めた、虐待発生の仕組みを理解し共有していかなくてはならない。それぞれの時代に虐待があり、背景も異なる。その発生機序の特徴や、それに絡む要素の幅も違っている。とにかく的確な理解がまずは必要だろう。

 国は珍妙な統計で間違った結論を導き、虐待の実態把握を怠っている。不適切な資料を提示し、この問題についての歪んだ理解を広めてしまっている。
 報道機関は、そういった情報を鵜呑みにして垂れ流す。報道されるのは、虐待事例の中でも、かなりひどい身体的な虐待があったものが中心で、それ以外の膨大な数の虐待事例については、まるで無関心のようである。虐待を背景にして起こった自殺等の死亡事例についても、「虐待」という視点から見ようとはしない。
 学者は、基礎的な知見の点検を忘れて、用語の定義すら曖昧なまま、これもまた珍妙な議論を展開し、間違った理解を流布させる。
 世間一般も、多数派にとって都合のいい常識を振りかざして、マイノリティに対して理不尽な非難を繰り返す。

 こんな状況の中、子ども虐待の問題、子どもの人権の問題への理解が深まるのか大いに疑問だ。

 自分たちの背負っている歴史を的確に認識すること。理解を歪めないこと。そのための適切な資料が提供されること。専門的知見が適切な議論の上に展開されること。そういったことを厳しく問い続けることが必要だろうと思う。

 

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2019年11月26日 (火)

虐待問題に対する理解の壁(8)

 子ども虐待の問題にアプローチするときに壁となってしまうことのひとつに、不十分で歪んだ知識に基づいて、歪んだ理解を拡散させてしまう専門家を自称する人たちの存在がある。これは、学者として、あるいは臨床家としての見識を問われる問題。倫理的な問題でもある。

 一つは、専門家と言いつつも現場を知らない人が多い。虐待臨床の現場に身を置いたことがなく、個々の事例の全体像を見たことがないような先生方が、シンポジウムでものを言い、講演会で話をしている場面を時々見かける。学術的な手法を使ってプレゼンするので、もっともらしく聞こえてしまうが、前提になるデータに問題があったり、「虐待」の概念が曖昧で虐待環境を的確にイメージできていなかったりすることもある。現場の臨床家なら、そういったものを鵜呑みにするのではなく、その根拠について精査し、具体的な現実の中でどのように有効な知見であるのかを自分の感性で吟味しなくてはならない。相手が有名な先生だと、現場のスタッフは、歪んだ知見を無批判に受け入れてしまうことがある。現場の人間であっても学問的態度で様々な知見をしっかりと吟味すべきだと思う。

 もうひとつ、これに関連してやや大きな問題がある。それは、「アタッチメント」概念の混乱。子ども虐待の問題では鍵を握る概念のひとつ。それが正しく浸透せず、むしろ歪んだ理解が広がってしまい修正がなかなか進まない。
 アタッチメントが「愛着」という言葉で訳されてしまい、「愛着」という日本語の意味でアタッチメントを歪めて理解している人があまりにも多い。アタッチメントは、日本語で言うところの愛着とは別物だ。専門家を自称しながら、「愛着」という言葉でアタッチメントのことを語り、講演までしている「専門家」までいる。中には単なる用語の使い方の問題にとどまらず、珍妙な理解で講演している先生もいらっしゃる。

 虐待を受けた子どもの行動の理解、そのケアの道筋、そして虐待をしてしまう親の心理の理解には欠かせない概念であるにもかかわらず、こういった現状がいつまでも続くと、大きな支障があるのは確かだ。基礎心理学の知見をしっかりと参照して、自分の知見を確認する作業を怠らないようにしてほしいものだ。専門職を自認する人の言動が、この問題の理解に水を差すようなことがあっていいわけがない。

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2019年11月24日 (日)

虐待問題に対する理解の壁(7)

 この子ども虐待の問題については、啓発活動がとても難しい。

 「ながの子どもを虐待から守る会」は、「ひとりで悩まないで」という言葉で呼びかけを続けてきたが、これは、追い込まれていく養育者に対する支援を展開しようという方針が明確に表われているように思う。「虐待者」を糾弾するのではなく、支援することで根本的なところで虐待を防ぎたいということであろうし、「衝動的加害」や「関われなさ」の中で苦しい思いをしている人への配慮のあるメッセージだと思う。

 一方、オレンジリボン運動の活動を担っている「児童虐待防止全国ネットワーク」の資料やホームページでは、「児童虐待防止」という用語が目立ち、法的な「虐待」の定義に則った活動が柱になっているように見える。確かに「オレンジリボン憲章」などを見れば、単純に「防止」とだけ言っている訳ではなく、家庭への支援、地域の連帯ということも言っている。ただ、どうしても「虐待」という言葉が、法的定義に沿ったものでしかなく、マルトリートメントとしての人権侵害を広く網羅しているようには思えない。統計資料も、国が示した不適切なものがそのまま掲載されている。個人的には、どこか違和感を感じてしまう。

 2005年のオレンジリボン運動の始まりのとき、虐待死事件を契機に発足した市民グループ「カンガルーOYAMA」とともにオレンジリボンキャンペーンを展開し、大きな役割を担った「NPO里親子支援のアン基金プロジェクト」は、「自分の気持ちに気づくことは、子ども虐待の予防につながります」をメッセージとして活動している。このメッセージは、法的に定義された全ての虐待に共通のメッセージであるし、子どもに対する人権侵害について考えるための、配慮に満ちたものであると思う。事務局が、児童虐待防止全国ネットワークに移る際に、このメッセージの深い意味が継承されなかったのは、大変残念に思う。当時の日本子ども虐待防止学会の抄録集に掲載されている、その思いが継承されなかったパネル展示資料を眺めると、どこか味気ない気がしてしまう。当事者への柔らかな配慮が姿を消してしまったように感じてしまう。

 啓発活動は、いろいろな難しさもあり、課題を抱えつつ熱意を持った人たちの手で展開されているが、その熱意を無駄にすることなく、活動が実際に子どもの人権を守る具体的な動きを生み出していけるように、議論を続けていかなければならないのだと思う。不十分な検討に終わり、表面をなぞるだけになっている国の施策にただ合わせるのではなく、ハートを持った活動が展開されていってほしいと願うばかりだ。

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虐待問題に対する理解の壁(6)

 「虐待性」の中でも「確信的加害」から、法的に定義された全ての種類の虐待が複合的に生じるのが性をめぐる被害だろう。

 法的な定義として、4分類されてしまい、その中に「性的虐待」として示されてしまっているため、この問題の認識が歪められる結果になっているのではないかと思う。四つのうちのひつとの虐待が起こったのではなく、全てが同時に起こり、さらに「性的」ということから派生する様々な問題に苛まれるのがこの問題だ。

 性的虐待については、明るみになることが少ないこともあって、その実態がいまだに分からない点が多い。それでも詳細に取材されたレポートが出版されたり、被害者自身が実名で体験やその後発生している問題について語ってくれたりすることで、その深刻さは伝わってくる機会も増えた。学会などでも、当事者の声を聴きながら議論する場面もある。

 ただ、精神科臨床の現場では、「過去の被害体験」に遭遇することは、実はよくあることだ。「実は…」と、患者さんから語り始められることを度々経験してきた。こちらが男性であっても、一度聴いてほしいと言いつつ語り始めることもある。「否定的なことを言わずに聴いてくれた人に初めて出会えた」と言って涙する人もいる。そして、「初めて自分は間違っていないと思えて、少しだけ楽になった。」とも話してくれる。被害に遭ったことだけではなく、その後の他者の関わりの中で更に傷ついてきたその人の人生があることが、生々しく伝わってくる。

 「なかなか聴く機会がないから分からない」のではなく、積極的に聴こうとしないから分からないという問題でもあるだろう。関心を持っていれば、当事者から話を聴いたり、手記を読む機会は、けっこう作ることができる。

 加害者は意図してやっていることであり、「虐待はダメ」という啓発をしても成果は挙がらないだろう。それよりも、被害者の声をしっかりと届けることで、この問題の理解者を増やしていくことが必要だと思う。周囲の人たちの無理解からくる「二次被害」という言い方もあるが、実際には、無理解による「一次被害」が追い打ちをかけてくると言ったほうが当たっていると思う。

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