2020年1月26日 (日)

「常識」って何だろう?

 精神科の臨床では、他人の評価がとてと気になってしまって不安定な人に高頻度で出会う。

 その悩みや不安の中身は様々。具合が悪くて仕事に出られなくなったとき、「弱くてダメ。もっと頑張れないといけないのに…」と言う人。気になってしょうがない他人の乱暴な言動に緊張することについて「そんな些細なこと気にするなって言われるけど、どうしても怖く感じてしまう。」と自分を責める人。作業所で「誰とでも話せるようにならないとダメだと毎日のように言われるけど、自分には無理…」と涙する人。「このくらいなんですぐに覚えられないの?って、皆から言われて。メモしようとすると、こんな簡単なこといちいちメモしないで覚えろって言われるし…」とアルバイト先での辛さを語る人。

 いろいろな場合があるにしても、「普通はこうだよ」「なんで普通に出来ないの?」と言われ、世間の常識に合わせることに難しさを感じていたりする。そのあたりを説明しても理解されることもなく「それじゃあ、もう来なくていいよ」と排除される。

 「常識」というものがあり、その通りに動けないことで、仲間として受け入れられなかったり、否定されたりする。

 でも、この「常識」って何だろう?と思う。世間一般の常識には正しいとは思えないことがたくさん含まれている。子どもの頃から「もっと頑張れ」「誰とでも仲良くしろ」と言われ、「間違ったことをすれば厳しく叱るべき」という「常識」があるために、恐怖を感じるほど強く頭ごなしに叱責されたりする。あり得ないことを求め、理不尽なことを受け入れろと求める。一体どこが正しいのか?と思う。

 「常識」の中には、確かに正しいと思えることもたくさんあるものの、意味不明のものも多い。

 結局、「常識」とは、マジョリティ側の都合で作られた「掟」のようなものでしかないのではないかなと思ったりする。マイノリティにとっては不都合な要素が多い。正しさの根拠は、「多数派であること」でしかないような気もする。社会の秩序を維持して、多数派が存続できるように作られた「掟」…良い面もあるものの、マイナス面もある。

 作家の村田沙耶香さんの小説「殺人出産」が問いかけているのは、このあたりかな…と思う。人にとっての倫理観さえ、まるで違ったものにもなり得る。何を倫理的と判断するかは「多数派の論理」であることが根拠になっているだけじゃないのか?と、マジョリティの喉元にナイフを突きつけるような小説だなと思う。この問いかけはとても重いものだと思う。

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2020年1月 2日 (木)

プロセスが失われた社会

 年が明けて新しい時間がスタートした。

 人は連続している時間を区切ろうとする。区切りがどうしても必要らしい。確かに区切りがあることで、過去をまとめ、未来を予測し、自分が何者であるのかを分かりやすくすることができる。どのようにして、何を成し遂げたのか。為し得なかったものは何なのか。そういったことが分かり、人生のプロセスを刻んでいくことができる。

 人生は、生まれる前から(恐らくは受胎以前から)死ぬまでの(あるいは死後も続く)変化のプロセスと言ってよいと思う。人生はプロセスであって、そのプロセスを主体としてどのように展開するのかということが常に問われていると言ってもよいだろう。

 でも、この世の中は、それとは逆行した動きが加速しつつ進んでいる。自分自身では判断しかねる「専門的な」事象が増えた。自動化が進み、自分の意思の介入の余地が少なくなった。結果だけが示され、中途のプロセスはブラックボックスの中。成果を求められ、そのために採用した方法は不問に付される。問答無用で服従を強いられ、意味不明のルールに支配される。

 国が示す方向性は、綺麗事ばかりで、そこに至るプロセスは何も提示されない。お題目ばかりで現実を動かすための知恵が国から失われている。打ち出される施策は、空っぽなものばかり。自国の成り立ちのプロセスがどうなっているのかも理解しないまま、他律的な手段ばかりが導入され、国としての生きた仕組みが弱体化していく一方だ。

 こういった動きは、世の中の隅々まで浸透してしまっている。医療・福祉・教育の分野でも、 プロセスが失われ、生きた人間の生活が、どういったものであるのかを描けなくなっている。しかも、そういった分野で働く人材の育成の仕組みが失われ、人が育たず、求められる成果ばかりが肥大化していく。

 プロセスを問い直し、それを展開できる力を再生させていくこと…これから先、取り組まなければならないのは、そういうとてつもなく大きな問題なんだと思う。

 さて、今年もプロセスの展開にこだわった活動を展開するつもり。どうなることか。

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2019年11月30日 (土)

児童虐待防止推進月間が終わる

 国から発信される情報は、「児童相談所の児童虐待相談件数は増加の一途を辿っている」「平均して毎週1人というペースで虐待によって子どもの命が失われている」という内容が主のように思う。それだけを読むと、子ども虐待の過酷さが増し、激しくなっているように聞こえる。少なくとも、そのように受け止められるような内容だと思う。

 本当に、子ども虐待は、「増加の一途を辿っている」のだろうか? アメリカやイギリスは虐待大国だ。質的には違うかもしれないが、日本もまた昔から虐待大国だったはずだ。今とは比較にならないほどの子どもが虐待されていたし、殺されていた。しかも、嬰児殺が殺人として厳しく罪を問われることもなかった時代さえあった。家族以外からの虐待もあり、そこで傷つけられ、あるいは殺された子どもたちもいたことは、なぜか忘れられているように思う。

 江戸時代だって子殺しはあったことは、以前から言われていることだ。「間引き」と言われる嬰児殺もよく知られている。奉公先での虐待もあった。昭和に入っても、養育しきれない子どもたちを引き取っていった者が、虐待し殺してしまった事件もある。歴史の中で、とても多くの子どもたちが虐待されてきており、相当の数の子どもが殺されてきた歴史を日本は背負っている。

 児童虐待に関して法律が制定されたのは、平成12年(2000年)の「児童虐待の防止等に関する法律」が最初ではない。昭和8年(1933年)に「児童虐待防止法」が制定されている。内容は時代を反映したものであるが、深刻な虐待の時代があったことを物語っている。

 「現在は、子どもが最も殺されなくなった時代」という人もいるし、それは確かに事実だと思う。だだ、根絶するには、歴史的な経過も含めた、虐待発生の仕組みを理解し共有していかなくてはならない。それぞれの時代に虐待があり、背景も異なる。その発生機序の特徴や、それに絡む要素の幅も違っている。とにかく的確な理解がまずは必要だろう。

 国は珍妙な統計で間違った結論を導き、虐待の実態把握を怠っている。不適切な資料を提示し、この問題についての歪んだ理解を広めてしまっている。
 報道機関は、そういった情報を鵜呑みにして垂れ流す。報道されるのは、虐待事例の中でも、かなりひどい身体的な虐待があったものが中心で、それ以外の膨大な数の虐待事例については、まるで無関心のようである。虐待を背景にして起こった自殺等の死亡事例についても、「虐待」という視点から見ようとはしない。
 学者は、基礎的な知見の点検を忘れて、用語の定義すら曖昧なまま、これもまた珍妙な議論を展開し、間違った理解を流布させる。
 世間一般も、多数派にとって都合のいい常識を振りかざして、マイノリティに対して理不尽な非難を繰り返す。

 こんな状況の中、子ども虐待の問題、子どもの人権の問題への理解が深まるのか大いに疑問だ。

 自分たちの背負っている歴史を的確に認識すること。理解を歪めないこと。そのための適切な資料が提供されること。専門的知見が適切な議論の上に展開されること。そういったことを厳しく問い続けることが必要だろうと思う。

 

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2019年11月26日 (火)

虐待問題に対する理解の壁(8)

 子ども虐待の問題にアプローチするときに壁となってしまうことのひとつに、不十分で歪んだ知識に基づいて、歪んだ理解を拡散させてしまう専門家を自称する人たちの存在がある。これは、学者として、あるいは臨床家としての見識を問われる問題。倫理的な問題でもある。

 一つは、専門家と言いつつも現場を知らない人が多い。虐待臨床の現場に身を置いたことがなく、個々の事例の全体像を見たことがないような先生方が、シンポジウムでものを言い、講演会で話をしている場面を時々見かける。学術的な手法を使ってプレゼンするので、もっともらしく聞こえてしまうが、前提になるデータに問題があったり、「虐待」の概念が曖昧で虐待環境を的確にイメージできていなかったりすることもある。現場の臨床家なら、そういったものを鵜呑みにするのではなく、その根拠について精査し、具体的な現実の中でどのように有効な知見であるのかを自分の感性で吟味しなくてはならない。相手が有名な先生だと、現場のスタッフは、歪んだ知見を無批判に受け入れてしまうことがある。現場の人間であっても学問的態度で様々な知見をしっかりと吟味すべきだと思う。

 もうひとつ、これに関連してやや大きな問題がある。それは、「アタッチメント」概念の混乱。子ども虐待の問題では鍵を握る概念のひとつ。それが正しく浸透せず、むしろ歪んだ理解が広がってしまい修正がなかなか進まない。
 アタッチメントが「愛着」という言葉で訳されてしまい、「愛着」という日本語の意味でアタッチメントを歪めて理解している人があまりにも多い。アタッチメントは、日本語で言うところの愛着とは別物だ。専門家を自称しながら、「愛着」という言葉でアタッチメントのことを語り、講演までしている「専門家」までいる。中には単なる用語の使い方の問題にとどまらず、珍妙な理解で講演している先生もいらっしゃる。

 虐待を受けた子どもの行動の理解、そのケアの道筋、そして虐待をしてしまう親の心理の理解には欠かせない概念であるにもかかわらず、こういった現状がいつまでも続くと、大きな支障があるのは確かだ。基礎心理学の知見をしっかりと参照して、自分の知見を確認する作業を怠らないようにしてほしいものだ。専門職を自認する人の言動が、この問題の理解に水を差すようなことがあっていいわけがない。

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2019年11月24日 (日)

虐待問題に対する理解の壁(7)

 この子ども虐待の問題については、啓発活動がとても難しい。

 「ながの子どもを虐待から守る会」は、「ひとりで悩まないで」という言葉で呼びかけを続けてきたが、これは、追い込まれていく養育者に対する支援を展開しようという方針が明確に表われているように思う。「虐待者」を糾弾するのではなく、支援することで根本的なところで虐待を防ぎたいということであろうし、「衝動的加害」や「関われなさ」の中で苦しい思いをしている人への配慮のあるメッセージだと思う。

 一方、オレンジリボン運動の活動を担っている「児童虐待防止全国ネットワーク」の資料やホームページでは、「児童虐待防止」という用語が目立ち、法的な「虐待」の定義に則った活動が柱になっているように見える。確かに「オレンジリボン憲章」などを見れば、単純に「防止」とだけ言っている訳ではなく、家庭への支援、地域の連帯ということも言っている。ただ、どうしても「虐待」という言葉が、法的定義に沿ったものでしかなく、マルトリートメントとしての人権侵害を広く網羅しているようには思えない。統計資料も、国が示した不適切なものがそのまま掲載されている。個人的には、どこか違和感を感じてしまう。

 2005年のオレンジリボン運動の始まりのとき、虐待死事件を契機に発足した市民グループ「カンガルーOYAMA」とともにオレンジリボンキャンペーンを展開し、大きな役割を担った「NPO里親子支援のアン基金プロジェクト」は、「自分の気持ちに気づくことは、子ども虐待の予防につながります」をメッセージとして活動している。このメッセージは、法的に定義された全ての虐待に共通のメッセージであるし、子どもに対する人権侵害について考えるための、配慮に満ちたものであると思う。事務局が、児童虐待防止全国ネットワークに移る際に、このメッセージの深い意味が継承されなかったのは、大変残念に思う。当時の日本子ども虐待防止学会の抄録集に掲載されている、その思いが継承されなかったパネル展示資料を眺めると、どこか味気ない気がしてしまう。当事者への柔らかな配慮が姿を消してしまったように感じてしまう。

 啓発活動は、いろいろな難しさもあり、課題を抱えつつ熱意を持った人たちの手で展開されているが、その熱意を無駄にすることなく、活動が実際に子どもの人権を守る具体的な動きを生み出していけるように、議論を続けていかなければならないのだと思う。不十分な検討に終わり、表面をなぞるだけになっている国の施策にただ合わせるのではなく、ハートを持った活動が展開されていってほしいと願うばかりだ。

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虐待問題に対する理解の壁(6)

 「虐待性」の中でも「確信的加害」から、法的に定義された全ての種類の虐待が複合的に生じるのが性をめぐる被害だろう。

 法的な定義として、4分類されてしまい、その中に「性的虐待」として示されてしまっているため、この問題の認識が歪められる結果になっているのではないかと思う。四つのうちのひつとの虐待が起こったのではなく、全てが同時に起こり、さらに「性的」ということから派生する様々な問題に苛まれるのがこの問題だ。

 性的虐待については、明るみになることが少ないこともあって、その実態がいまだに分からない点が多い。それでも詳細に取材されたレポートが出版されたり、被害者自身が実名で体験やその後発生している問題について語ってくれたりすることで、その深刻さは伝わってくる機会も増えた。学会などでも、当事者の声を聴きながら議論する場面もある。

 ただ、精神科臨床の現場では、「過去の被害体験」に遭遇することは、実はよくあることだ。「実は…」と、患者さんから語り始められることを度々経験してきた。こちらが男性であっても、一度聴いてほしいと言いつつ語り始めることもある。「否定的なことを言わずに聴いてくれた人に初めて出会えた」と言って涙する人もいる。そして、「初めて自分は間違っていないと思えて、少しだけ楽になった。」とも話してくれる。被害に遭ったことだけではなく、その後の他者の関わりの中で更に傷ついてきたその人の人生があることが、生々しく伝わってくる。

 「なかなか聴く機会がないから分からない」のではなく、積極的に聴こうとしないから分からないという問題でもあるだろう。関心を持っていれば、当事者から話を聴いたり、手記を読む機会は、けっこう作ることができる。

 加害者は意図してやっていることであり、「虐待はダメ」という啓発をしても成果は挙がらないだろう。それよりも、被害者の声をしっかりと届けることで、この問題の理解者を増やしていくことが必要だと思う。周囲の人たちの無理解からくる「二次被害」という言い方もあるが、実際には、無理解による「一次被害」が追い打ちをかけてくると言ったほうが当たっていると思う。

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虐待問題に対する理解の壁(5)

 虐待性の中の「関われなさ」は問題が少々複雑でやっかいだ。ここで問題にするのは「ネグレクト」ではない。心身が危機的な状況に陥ったり、何らかのダメージが生じたりするのを知りながら、意図的にそこに関わろうとしないのは、虐待性の中の「確信的加害」に該当するもの。ここで話題にしたいのは、関わろうとしても関われない要素について。法的にはどちらも「ネグレクト」に分類されてしまうが、そこは峻別すべき違いが明らかだし、生じるダメージの質も違えば、ケアの方途も違ったものになる。

 関われないことの背景には、いくつかの原因がある。一つは、能力面で難しさがある場合。発達特性があって、育児の中で求められる様々な事柄が理解できなかったり、理解しても対応が難しかったり。あるいは、関わるべき事象があること自体への気づきがなかったり。しかし、こういった場合は、支援を手厚くしたり、施設を利用したり、あるいは里親委託という方法もある。とにかく手厚い支援を計画的に行なうことが必要。

 疾病などによって関われない場合もあるだろう。うつ病などで動けず「関われない」ということもある。多くの場合、「関われない」ということに自責感が強まり、理想と現実とのギャップを強く感じてしまって一層病状が悪くなっていく場合もある。単に支援を多く投入すればいいというものではない。時には、うまくまわっていない家庭の中を見られたくなくて、支援を頑なに拒否してしまう場合もある。具合いの悪いさには、そもそも背景があり、それが悪循環を引き起こしている場合もある。その微妙な部分へのケアが重要だと思う。無茶してはいけないということを納得してもらうのに、とても苦労するのはこういう場合だ。子どもも、元気をなくしている親を気遣うかたちになった場合には、親に負担をかけまいと頑張ってしまい、ダメージを深めてしまうことも多い。この場合のダメージは表面上見えにくく、見落とされることが多い。

 多忙のために「関われない」という場合もある。心理的にも時間的にも余裕がなくなると、「関われないのも無理はない」という状況に追い込まれることはよくある。それなりに力のある親であっても、祖父母の協力が得られないとか、保育所の利用ができないとか、夫の帰りが遅くて母親だけで育児にあたっているとか、あるいは子どもの人数が多くなり限界を超えているとか…。
 こういう場合、子どもを育てることの負担というものを知らない人たちが、対処できない母親に対して非難したり、「できるのが当たり前」という態度で見下してみたりすることはよくある。追い込まれることで、抑うつ的になって、一層関われなくなったりするし、衝動的加害への可能性はどんどん高まっていく。

 こういう「関われなさ」から生じた「ネグレクト」は、支援に入ったスタッフが、励まして頑張らせようとすることも多い。支援が不十分なまま、本人の頑張りに期待するしかない場合もあるだろうが、家庭を取り巻く状況を適切に考慮せずに叱咤激励で乗り切らせようとする「専門スタッフ」も意外に多い。頑張れば一時的に頑張れたり、あるいは子どもが自立的な行動をとってくれて、表面上は大事にならない場合もある。しかし、そういった表面の様子とは関係なく、子どもへのダメージがとても深まっている場合がある。そこを見抜く専門的な目は、なかなか現場に育っていないように思う。
 10年後、20年後、あるいは高齢期になり、背景にあった問題が吹き出して、つらい人生を送ることになる場合もある。自殺への可能性が高まったり、うつ病の発症のリスクも高まるだろうし、高齢になって認知症になった場合に、心理面でのトラブルはけっこう深刻なものがある。見えにくいために子どものダメージの程度を見誤り、支援の手が大事なところに届きにくいのが「関われなさ」からくるマルトリートメントだと思う。

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虐待問題に対する理解の壁(4)

 虐待性の中でも「確信的加害」は、意図してそうしているという点で悪質と言えるが、実際には、これにもいくつかの種類がある。

 最も悪質なのは、脅す、支配する、いたぶる、弄ぶ…そういったことが酷く子どもを傷つけ、その傷つきが子どもの一生に深刻な影響を与えることを知っていながら、そうすることに快を感じ、意図的に繰り返す場合。そこには理念もなく、いわゆる「確信犯」とも違う。子どもが単なる捌け口として道具のように扱われている。そういった行為の大部分は、刑法に「罪」として規定されているものだ。「児童虐待」などと言って、その対応をぼかしてしまうのではなく、迅速に公的機関につながなくてはならないものだ。
 問題なのは、こういった虐待があることが疑われても、公的機関につなごうとする人が必ずしも多くはないと思われること。遅れれば、それだけ子どもが受けるダメージは深刻なものになってしまう。時には、受ける虐待そのものよりも、それに気づきながら放置する、家族を含めた周囲の人たちのネグレクトによるダメージが大きい場合もある。誰も助けてくれない絶望感で完全に打ちのめされてしまい、人生が終わってしまう。啓発活動が、こういった虐待に何か効果があるとすれば、直接虐待をしている人に対してではなく、周囲でネグレクトしている人に対してだと思う。

 「確信的加害」には、もうひとつの大きなものがある。「しつけ」と「虐待」の区別がつかない人たちが日常的に繰り返す厳しい叱責などの虐待。「間違ったことは厳しく叱る」というもっともらしい子育て観に支配されていると、虐待行為が日々の子どもを育てる営みの中にたくさん混入してしまい、虐待環境の中で子どもが育っていくことになる。「正当なしつけ」であって「虐待」ではないと言い張り、周囲からもそれが「常識」として支持されてしまう。また、「普段は、特に乱暴なことしない人」として見られ、「どこの家にもあること」と見過ごされてしまう。「厳しく叱られるのは、当たり前。あんなことしたんだから。」と積極的に肯定する人もいるかもしれない。
 子どもが、叱られたことを誰かに話せば、「それは、そういうことをしたあなたが悪いよね」と言われてしまう。叱責する際の「内容」が間違っていないだけに、子どもも反論できず、自責的な思いにとらわれるようになり、自尊心も育たない。
 こういったタイプの不適切な関わりは、世の中には蔓延しているし、ここにこそ啓発活動の意味があるのだと思う。ただ、その際に「体罰禁止」「虐待はダメ」などと言うだけでは何も解決していかないだろう。そういう叱責ではダメということであるなら、どのように接するのがよいのか、イメージが多様に示されていく必要がある。

 この後者のタイプの虐待環境で育った人たち…精神科の現場ではとてもよく出会う。行動が世間の常識に沿ったかたちでできるようになると、「大人になった」と言われ、こころの奥底に出来上がった問題を抱えたまま社会に出ていく。その問題は、何かの拍子に露わになることもあるし、プロセスを学ぶことができないことで起こる次世代の子どもたちへの虐待というかたちで現れてしまうこともある。精神疾患にもかかりやすい脆弱さを抱えながらの生活になってしまうと、人生がぎこちないものになってしまう。日々公然と行われている人権侵害と言える。

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2019年11月23日 (土)

虐待問題に対する理解の壁(3)

 虐待性の中でも「衝動的加害」に関しては、「プロセス」が進められないことの問題が関係していることが多いが、この「プロセスが進まない」という問題には様々な背景があるだろう。

 一つは、頭ごなしの「しつけ」を受けてきた場合。まず、先に「どうあるべきか」という結論が先に示され、それに従うことが求められ、それができないと叱責される。これは、虐待の一つのかたちでもある。ここにはプロセスなど存在せず、「結果を直ちに示せ」という圧力があるだけだ。こうしてインプットされた価値観や生活習慣は、歪んだまま、心を頑固に占拠してしまう。自分が子どもを育てる立場になった時、子どもにも待ったなしの圧力をかける。子どもが従えない時、インプットされた絶対的なものになっている価値観や生活習慣が壊れるような不安に襲われる。支配できないことによる傷つきも相まって、コントロールできない攻撃的なエネルギーが噴出してしまう。

 二つめは、プロセスを進める体験が乏しい場合だ。プロセスを経ることなく結果を手に入れる体験ばかりが積み重ねられていたり、苦労を伴うプロセスを誰かが代行していたりした場合、プロセスを進めるスキルが不足していることが多い。結果が手に入らない事態が目の前に現実として存在し、依存する相手もいない。プロセスを進める責任性を元々感じていなければ、欲求不満は他責的なかたちで表現されるだろう。甘やかされたり、何でも思うままに買い与えられたりするような環境などで育った場合がその典型だろう。

 三つめは、発達的な特性によってイメージを扱う力が弱く、プロセスを展開できない場合。人はイメージを思い描き、それに沿って行動したりする。イメージがないところに行動は出にくい。発達的な特性により、このイメージを操作する力が弱い場合がある。そういった時に、社会生活を送る方法として、様々なルールを行動の枠組みとして取り込み、それに沿って生活している人もいる。そのような場合、例外的な突発的な出来事に対しては適用すべきルールがなく、困り感が高まりやすい。枠組みから外れてしまったように見える行動に対して、怒りが爆発したり、疲弊したりしやすいということだ。

 四つめは、トラウマの存在。「トラウマ」は「心的外傷」とも言われるが、実際には単なる「傷」ではない。危機的状況を知らせる「警報装置」として機能している。危険な環境であれば、トラウマがあることで、いち早く危険を察知し危機に備えることができたりする。このときの切迫感は、自分自身の力でコントロールするのはとても難しい。死活問題になる状況が動いていることを察知して湧き上がってくるエネルギーに抗して、理性的に判断することはなかなか難しい。衝動的な行為に至ることは当然のようにある。「警報装置」を解除してもいい環境にあるなら、スイッチをオフにするための治療的な関わりが必要だったりもする。

 「プロセスが進まない」ということには、他にもいろいろな問題が関係していると思うが、もうひとつ指摘しておかなくてはならないのが、ブラックボックス化した環境の問題。最近の便利な世の中は、様々なことが自動化され、人間が個々の細かなプロセスを体験することを阻止する環境が出来上がってしまっている。ボタンをただ押すだけで済んでしまう「全自動」の仕組み。本質さえ知りようのない「ブラックボックス」に身を委ね、プロセスを省略した生活に甘んじているのが、最近の世の中。大切なプロセスが奪われてしまっているということだ。これでは、プロセスを進めるための力など育ちようがない。発達特性を持っている場合には、それを補うための体験が得られにくくなり、発達特性が剥き出しのままになってしまう環境でもある。

 「虐待性」の中でも「衝動的加害」に関しては、啓発活動の成果はあがりにくい。攻撃的な衝動は、人間が自分を守るために内側から湧き上がってくるもので、それを抑えることは「自分を守るための行動を放棄する」ことを意味している。この矛盾した状況を解消するための方策がないと、「衝動的加害」としての虐待行為は止まるわけがない。

 「とらわれ」から解放され、自分の傷つきの仕組みを理解したときに、いとも簡単にこの「衝動的加害」が消えてしまう場合もある。カウンセリングの中での、たった一言から自分の中で起こっている問題に気づき、こころのケアが進んでいく場合もある。攻撃的な衝動を抑えることができるようになるというよりも、攻撃的な衝動が起こらなくなり、悪循環から解放されるかたちになったりする。虐待性の中でも「衝動的加害」については、特にケアの視点が大切だろうと思う。

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2019年11月22日 (金)

虐待問題に対する理解の壁(2)

 虐待が起こることの主要な問題のひとつが「プロセスの喪失」ということ。

 プロセスを進める力が育っていないこと、あるいはその力を失うこと、プロセスを進めるための条件が整っていないこと…など、様々な事情があると思うが、そのことによってプロセスが進まず、期待する「結果(目標)」などと現状との間にある埋まらないギャップの存在感が膨れ上がって迫ってくると、多くの場合、強いエネルギーが一気に湧き上がるものだ。その直接の原因になったものが何なのかが分かっている場合は、その一点に向かってその膨大なエネルギーが放出される。

 このエネルギーは、本来は問題解決のためのものであって、動物なら当然持っているものだ。満たされるべき飢えがあれば、攻撃性が高まり、獲物を捕らえるための活動に駆り立てる。外敵によって存在を脅かされれば、安心できる状況を取り戻すために全力で戦うか全力で逃げる。命が脅かされるような事態に陥ると、普段は考えられないような大きな力で何かをやり遂げたりする。

 人間は、社会的な関係の中で生きる動物でもあるので、社会的な信用を失ったり、関係が断たれたり、評価が低下するような事態も「死活問題」として感じ取る。そのときには、当然のことながら、このエネルギーが出てくる。

 こういったエネルギーは、問題解決のためのプロセスを進めていくために使われていくなら問題はない。でも、それができない人は、実際にはたくさんいるし、珍しいことでもない。プロセスが進まないままエネルギーが充満すれば、それが消えていくのを待つか放出するかしてしまわないと、自分自身が壊れてしまう。その危機感が高まれば、エネルギーはさらに膨れ上がり、限界を超えてしまう。虐待性の中でも「衝動的加害」はこういった状況の中で起こることが多い。

 「愛情深い親になりたい」「幸せな家庭を作りたい」と強く思っているほど、子育てがうまくいかない時に生じる、このエネルギーは強いものになるかもしれない。実際に継続的にカウンセリングを行なっていると、子どもに対してキレてしまう自分を情けなく思い、自分を責めながら涙する人はたくさんいる。こういった親に対しては、「虐待は許さない!」というだけの啓発は意味がなく、むしろ追い詰める結果になる可能性もある。

 伝えなければならないのは、「そこまで立派な親である必要はないので、うまくいかないことは、オープンにして相談してほしい」ということだろう。

 法的に定義された「虐待」を一律に扱い、臨床的な視点が欠落してしまうと、せっかくの啓発も「不十分」どころかマイナスに作用する。

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2019年11月19日 (火)

虐待問題に対する理解の壁(1)

 世の中には物事を二分割して考える「二分割思考」が幅をきかせる傾向がある。

 「正邪」「善悪」「正誤」「優劣」「高低」「是非」「愛憎」「適否」など、相対する言葉を並べた言葉はいくつもある。「善」でなければ「悪」になるし、「邪」ではないことを主張したければ「正」であることを誇示しなければならない。

 「ヒーローもの」が流行った時代は、正義が華々しく描かれ、悪を懲らしめることで一件落着するパターンを刷り込まれてきたように思う。「ヒーロー」への同一化があり、「ヒーロー」を自分の中に取り込み、「自分は正義である」と思い込む。

 人権侵害があったとき、自分自身がそのような人間ではないことを信じるには、人権を侵害する存在に対して断罪するような態度をとり、「自分は正義の側の人間である」と主張する。

 この虐待の問題については、国がそのようなものの見方を助長するようなやり方で、児童虐待防止推進月間を進めてきたこともあるかも知れない。2004年の厚労省の児童虐待防止のポスターに、泉谷しげるさんの写真が登場し、「許せねぇ、児童虐待」というキャッチコピーが印刷されていたのが、それを如実に物語る。インパクトがあり話題にもなったが、良識のある人たちからは、「不適切なポスター」「悩んでいる親を追い込むだけ」「かえって相談しづらい雰囲気ができてしまう」と批判もあった。

 啓発を行なう側が、自分たちの中にも虐待性が存在することを認識するなら、もっと違った表現になるのは明らか。様々な啓発活動の各々の質やレベルが問われる話だと思う。

 多少とも希望が感じられるのは、「ヒーロー」の闇を描いたり、「悪者」のトラウマにまみれた過去が描かれたような漫画やストーリーが広く受け入れられ人気を集めていることだ。そこには、「正邪」の区別は曖昧で、その概念自体が無意味化されたりする。そういった理解こそが大切だと思う。

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2019年11月17日 (日)

虐待問題に臨床的視点を(5)

 「臨床的視点」ということが問題になっているとして、その個別的な事例の姿については、どこまで理解を進めなければならないのかということが意識されなければならない。

 下の図は、子ども虐待ケースのひとつの架空事例。こういう事例は、特殊な事例ではなく、精神科では意外によく出会う。

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 子どもが困って相談してきても、聞こうとしない余裕のない母親。子どもが「なんで聞いてくれないの!」と迫るとキレて蹴りを入れる。そのときには暴言も一緒にぶつけてくる。その母親も家庭の中では孤立し、配慮してくれる人もいないまま、夫からはDVがあったり。そして、母の行動に対して、義父がキレて非難する。それを見ても何もしない義母。

 こういった環境に対して、誰も変えるための行動を起こさず、あるいは起こせずに、これが持続していく「虐待環境」が作られていたりする。

 さらに背景を探れば、高齢になってきて衰えを感じつつ、自分の存在を示そうとして支配的な態度で家庭全体をしきろうとする祖父の心理があるかもしれない。人を支配し、自分が優位に立った状態で安心感を得ようとする歪んだ心理が働いている場合もあるかもしれない。支配にほころびがあっては不安が高まるため、プロセスなど関係なく、ただちに従わせようとして怒鳴り、脅しをかけたりする。
 主体としての自己の確立に失敗し、発達課題が未解決のまま、亭主関白な夫(「祖父」)に従うかたちで生きてきた「祖母」は、この状況が良くないことを理解していても、そこに口を挟むだけの勇気はなかったりするかもしれない。
 「父」は、幼少期からこのような家庭の中で育ったとすれば、父親(「祖父」)がキレる場面は恐怖の対象でしかなく、その「キレ」を誘発してしまう妻(「母」)に対して、「なんとか早く収めろ!」と言わんばかりにDVが繰り返されたりする場合もあるかもしれない。
 「母」は育児をただ任されるばかりで、助けてくれる人もなく、夫(「父」)のDVを誘発する子どもへの対応に緊張し、自分が考える理想の子育てからはほど遠いかたちでしか子どもに関われない状況に追い込まれている場合もあるかもしれない。気持ちの余裕などなく、ただ、子どもが言うことを聞き、DVや祖父の激しい叱責が起こらないように収めることだけを考えているかもしれない。場合によっては、既にPTSDなどの症状が形成されて、何かある度に不安が爆発し、コントロール不能の状態に陥っているかもしれない。
 「子ども」も、守ってくれる大人がいないような中で、不安が高まりやすく、それだけに誰かに相談したい場面が多いかもしれない。しかし、その「不安だから相談する」という行動が、自分自身の安心・安全を脅かすことになっている場合もあるかもしれない。

 ここでは、様々な虐待が複合的に生じており、虐待者は複数存在している。この虐待環境の例は、ひとつの架空の例であるが、こういった例は決して特殊なものではなく、よくよく話を聞いていくと、多かれ少なかれ似たような要素が語られることが実に多い。一人一人の困り感なども理解していくと、そこには、単に個人的に困っているというだけではなく、歴史の中で刻み込まれた問題も多く含まれていることが分かってきたりする。

 このように全員が問題を抱え、出口が見えない状態の中で影響し合い、虐待環境が維持されてしまっている状況があるとしたら、いったい誰が、どのこに、どのようにアプローチすればいいのか? 関係している人を全員集めて話し合い、安全・安心の環境を整えていく試みも実践されているものの、膨大な事例を抱えている現場で、いつもそのような実践ができるわけではない。

 しかし、厚労省の統計では、こういった事例を「虐待種別:身体的虐待」「主たる虐待者:母親」と分類して数字を積み上げているだけだ。そうやって積み上がってしまった数字からは、歪んだ理解しか出てこない。国の虐待対策もピンボケにしかならないのは当然のことだと思う。

 

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